あの夜空の輝く星に、願いを込めて。

願いの届け方を忘れてしまった「あなた」に、私はそっと耳打ちをする。他の誰にも、聞かれないように。

自己観察(ヴィパッサナー・マインドフルネス・気づき)の瞑想

antmethsys.hatenablog.com

「自己観察」は自己、正確には自分が今まさにこの瞬間経験しているデキゴトを"観察"すること。

 

まず「自己観察」という言葉だが、自己観察というと自己観察さんという(あだ名で出呼ばれている)達人がいるのでまぎらわしい。彼女の話はここでは関係ない。

 

自己観察はヴィパッサナーとかマインドフルネスとか気づきの瞑想とか言われている。

 

自己観察とは何か言葉で説明するのは難しいが、言葉で表せば「今この瞬間自分が経験していることを今この瞬間にそのまま直接経験すること」「経験を思考で理解しようとしないこと」「経験を解釈しないこと」「経験を判断しないこと」「自分自身を一歩引いた視点で観察すること」「メタ認知を得ること」だ。

 

詳しい話は「ヴィパッサナー」「マインドフルネス」で検索して調べてくれ。

 

具体的なやり方だが、まず具体的なやり方を話す前に、自己観察では実践と同じくらいに自己観察の「考え方」を(直感的に)理解することが重要になるから、理解が重要と言うことを理解して、たえず学ぶことをしてほしい。


「自己観察」

まずさっきも述べたが、人間は現実をたえず「思考」で解釈し、真実の現実の姿をよく見ていない。だから物事の本当の姿がわかっていない。

なので、思考での解釈を止め、現実の実際の姿をよくよく観察するのが自己観察。

具体的には「五感観察」「感情観察」「思考観察」「認識観察」をする。
左が一番簡単で、右が一番難しい。
左で自己観察に慣れていくと「観察する力」が高まって右のもできるようになる。

「五感観察」は身体感覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚を観察すること。正確にいえばその感覚を感じている自分を観察すること。
まず身体感覚を十分に観察することが大事だ。視覚と聴覚は思考による解釈が入りやすく観察には向かない。嗅覚と味覚は用意するのが難しい(食事時はやるといいだろう)

具体的には「暑さ」「寒さ」「熱さ」「冷たさ」「痛み」「かゆみ」「だるさ」「身体的爽快感」「身体的不快感」「内臓の痛み」「尿意」「便意」「空腹感」「満腹感」「肌に物が触れる感覚」「筋肉に力が入る感じ」「呼吸するときの身体の感覚」などなどだ

思考を止めて(前述の「思考停止」能力が役に立つ)これら全身の感覚を目いっぱい感じる。
なるべくたっぷり、そして微細な感覚まではっきりと具体的に感じようとする。
これを繰り返して習熟していくとと自分では気づかないが観察力が高まってくる。
その観察力をつかってさらに高度な観察を行う。


「感情観察」自分の心に湧き起こる様々な感情を一歩引いた姿勢で観察する

「怒り」「悲しみ」「喜び」「笑い」「恐怖」「不安」「不満」「不快」「精神的傷つき」「混乱」「愛」

様々な感情を一歩引いた姿勢で観察する(思考して理解するのではない)

感情観察で大事なのは感情はコントロールできないものだと認めること、なるべく冷静さ、客観さ、一歩引いた姿勢を守ること(でも無理ならしない方がいい)。

怒りが顕著だが、「自分は怒ってるんだぞ」という姿勢だと観察にならない。

そうではなくて、「ああ、今、自分は怒ってるんだなー」「ああ、今、自分には怒りの感情がわきだしているんだな」と一歩引いて観察する。

そうすると「怒っている自分」と「それを観察している自分」が分離して、自分の感情を冷静に客観的に見ることができる。そうすると怒りに心をかき乱されることが少なくなる。怒り自体もすぐおさまることが多い(とはいえ怒りが大きいときはなかなかできないが)

「五感観察」と「感情観察」は効果が大きく、また初心者でも比較的簡単にできるので、最初はこの2つで十分だろう。それ以上は無理してやらなくていい。


「思考観察」自分の思考を、思考ではない直観によって観察する。

これは難しい。なぜ難しいかと言うと、思考を観察しようとすると、思考を理解しようとする思考がわきだして、観察対象である思考と一体になって、客観的に観察できないからだ。

思考観察には高度な思考停止力と自己観察力の両方がいる。

思考観察ができるようになると、自分は思考ではないという直観的理解が深まり世界の真実の姿が見えるようになる。

思考観察は無理してやらなくていいので、そういうものがあるんだなと知っていればいい。

「認識観察」自己観察の究極形態。現実を認識する自分を客観的に観察する。

これは難しすぎて言葉で説明するのも困難だが、一応説明する。

ja.wikipedia.org

人がリンゴを見てリンゴだと思うのはなぜだろう?それは人がリンゴについてあらかじめ知っているからだ。

もしリンゴを知らない人がリンゴを見たらどうなるか。

「なんかの果物」「なんか赤くて丸いもの」「なんか」「 」

そういう反応になるだろう。これはリンゴだけでなく、私たちが生きているあらゆるものについて言えることだ。

もし私たちが世界のあらゆるものについて無知だったらどうなるのか。

この世界のすべてが「 」になる。つまり世界は「消滅」するということ。

自分自身が「これは人間だ」「これはお金だ」「これはいいものだ」「これはわるいものだ」と当たり前にしている認識を、さらにメタな視点から「如実に」観察することで、その認識から自由な本当の現実の姿を見るのが認識観察だ。

ここまでくれば自己観察は完成、因果の法則に縛られない、自由自在な生き方で人生を遊ぶことができるだろう。

もう何を言っているかわからないかもしれないが、わからなくてもいい。そういうのもあるのか、ぐらいに思っていればいい。

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